オイラのブログをアップしようと思って気がついた!
せっかく作った「徒然散策記」って
ひとつもネタが入ってないじゃんっ!
欲望に忠実なせいか、どうも
「食べある記」に注力しがちだったコトを反省。m(_ _)m
と、いうコトで早速
「歌舞伎好き」「歴史好き」なオイラらしい第1話を
地元ネタで書いてみたゾ!
普段、家の近所を散歩する時によく行くのが隅田公園。
いわゆる大川端にできた広い公園で桜の季節は最高の花見スポット。
桜の花と酔っ払いのヘンな踊りを見るにはココと上野公園が最高。
いつも抱腹絶倒なオイラです。
そこに行くチョット手前に
「浅草猿若町」があります。
もちろん町名の由来は江戸歌舞伎の創始者
猿若勘三郎からとった名前です。
彼から数えて十八代目が今年襲名しましたねぇ。
江戸歌舞伎300年の歴史を感じます。
今はで「猿若町」っていう地名はありません。
一般的には浅草六丁目といわれる地域の一角が猿若町デス。
入り口のところに簡単な解説の看板があります。(左写真)
ここには江戸末期の芝居小屋
「江戸三座」があったトコロです。
元々、この一帯は丹波国小出氏2万3千石の下屋敷があった場所だそうです。
「天保の改革」(皆さん覚えてますか? ^^;)の時、老中水野忠邦が風俗統制に乗り出して
江戸市中にあった芝居小屋や文楽小屋をここに集めて作った街なんだそうです。
幕府の考えだと、
寛永寺から向こう側は江戸じゃないから
首都から締め出したってワケ。
そんなコトで天保13~14(1841~42)年頃に、この
娯楽の殿堂の街ができました。
入り口の看板のところに木戸があったそうで、手前から1・2・3丁目となっていたらしい。
1丁目には歌舞伎の
中村座があったそうです。
当時の中村座がどんなだったか知りたい方は
江戸東京博物館まで!
再現した建物が常設展示されてるゾ!
2丁目は歌舞伎の
市村座。
かろうじて
「市村座跡」の碑が残ってます。(右写真)
ここにはマンションが建っていて当時のおもかげは無いですね。
まぁ戦災もあったりしてますから、跡形もないのは当然だね。
さらに先の3丁目には
河原崎座があったらしい。
その後、河原崎座は興行権を
守田座に譲ったようで
今では
「守田座跡」の碑があります。(右写真)
この守田座もその後
森田座になっちゃうんだけどね。
この並んだ歌舞伎小屋を
「江戸三座」と呼んでいたんだね。
一応、オカミからオユルシをいただいてる証として、この三座には
櫓が立っていたんだそうだ。
通りをはさんで1丁目の中村座の向かいに
文楽の「薩摩座」。
2丁目の市村座の向かいに
文楽の「結城座」があったとのコト。
今は結城座があった所に
「猿若町の碑」が建ってます(左写真)
当時はそれはそれは大変な賑わいだったそうで。。。。
それもそのハズ。
江戸時代の「庶民の娯楽」といえば芝居見物が一番人気ですから。
しかも江戸中に分散していたのを一ヶ所に集めたんだから当然人が集まるワケで。
更に
観光地「浅草寺」にも
色町「吉原」にも近いからね。
今で言う
新宿+渋谷+銀座みたいなゴッタな街だったんだと思うよ。
明治になって幕府のご法度もなくなったので、各座はあちこちに転出していきます。
森田座は明治5年、中村座は明治17年、市村座は明治25年に移転。
猿若町が賑わっていたのはショウミ20年位だったんだね。
でも
江戸期の爛熟文化を一番代表していたのはこの街だったと思うゾ!
今では閑静な街になってまして往時を偲ぶモノはありません。
かろうじて
藤波小道具店さんがありますが…(右写真)
たまたま従業員の方に話が聞けました。
この辺はその後履物問屋街になったけど役者さんも住んでて
昔ながらの雰囲気が最近まであったんだそうです。
藤波小道具店さんは今でも歌舞伎小道具をやってるそうで倉庫には梯子とかお櫃とか
イロイロ山積みになってたゾ!
なんとも歴史を感じられる街でした。
浅草にくるコトがあったらゼヒおすすめです!
特に歌舞伎や文楽など、伝統芸能好きの皆さんは、その歴史を感じてみてはイカガ? ^^)
浅草寺の裏を出て言問通りを隅田川方面へ向かって歩くと右側にampmがあります。
この向かい側の細い路地が
「猿若町」です。
浅草下町歩きとして探してみてね!